小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

世事多事:動物園や水族館は減らしていくべきでは

 郷里に小さな動物園があった。子供の頃連れられて行った時、少しだけしか動き回れない本当に狭い場所にツキノワグマがいたような記憶がある。
 自分は動物が嫌いじゃ無い。むしろ大好きで、犬や猫は勿論、一番あこがれるのは猛禽類だ。前居所にはCATVが来ていたのだがアニマルプラネット等で猛禽類の話をやるとまじまじ見ていた。また、画像貼り付け系掲示板や壁紙サイトなどで見つけた鷲鷹類の画像を保存したりしてる。
 でも、猛禽類を飼いたいとは思わない。フクロウをペットとして飼っている方のサイトなどを見るとなおさら思う。元々広いテリトリーを持つ種をケージや家などで飼うのは寂しいことではないだろうか、と。彼らの生態を見たいのなら、彼らのテリトリーにマナーを守って少しお邪魔させて頂き観察するか、TVで見るだけでいいと思っている。自由に空を飛び、新鮮なエサ(特に猛禽類にとってはエサの新鮮な内臓などは健康の維持には欠かせないという)を食べることは大事だから。フクロウ等を扱っているお店が冷凍されたマウスを売っているらしいけれど。でも狩りは彼らの人生の大事な部分だと思うし、そのための広いテリトリーだと自分は思う。
 同様にイルカやシャチなども水族館で飼うべきではないと思っている。彼らもまた広いテリトリーの中で生きる生物だからだ。彼らは音波を使うし、会話も行う(参照:「ハンドウイルカ - Wikipedia :5 感覚とコミュニケーション」)。海洋ほ乳類について様々な本を読んではいないので複雑なことは書けないが、水のなかで音波が遠いところまで届くことを考えれば、彼らが、まるで人間がネットや電話でやるように、遠方の友達と会話をすることが可能なのではと思うし、水族館のプールで5〜6頭だけで生活するのではなく、母系の一族が集って海に住むことが本来の姿だとも思う。だから、猛禽類の所で書いたように、彼らが住む場所で、彼らの中の「遊びたがり屋」とでも言えるものたちとふれ合う方が良いのではと感じる。実際、イルカとふれ合うツアーなどがあると聞く。日本だと小笠原の方であるようだ。
 どうしてこの話を書いたかと言えば、この話だ「名古屋港水族館、シャチを公開へ シーワールドからの3頭 - 47NEWS(よんななニュース)」を見たからだ。
 名古屋港水族館は懲りてないのだろうか。
 そんなにシャチが欲しいのだろうか。確かに今回の移送については、鴨川側の事情もある。しかし、太地町の「太地町立くじらの博物館」では湾に網を張り、そこで飼育していたのだが、名港水族館ではプールだと聞く。湾であればまだ寂しくなかったのでは? と実際に改装前のその水族館でナミ(2011年に死亡)を見た自分は思う。確かに広い湾ではないが、深さはそこそこあったように思う。ナミの姿が水面に見えたり見えなくなったりしたからだ。また、湾は海と隔てられていない。もしかすると遠くのシャチと話くらいは出来たかも知れないと思う。
 また、当時のその水族館では、シャチのエリアの他に、イルカのいけすがあったが、ショープールもあった。ショープールは古くて狭く気の毒に思った。いけすの方で作業をなさっていたスタッフの方に「ショープールのイルカがいけすに移されることはあるのですか?」と尋ねたら、それはないとのこと。当時のことであり、改装後は湾のほうでもイルカショウをやっているので今はわからない。
 名港水族館では二頭の死亡を踏まえ、今回の三頭の受け入れと飼育について慎重に行うと言うが……個人的にはあまり信用していない。
 自分がこれらのことについて考えるきっかけになったのは、リック・オバリー氏の「Amazon:イルカがほほ笑む日」を読んでからだ。オバリー氏の考えや行動を全面的に支持はしないけれども、本来生活する場所で生きるべきというのは理解できる。
 自分はかつて数ヶ月以上入院したことがあるが、窮屈なものだった。今は外出恐怖の為に「出ることが出来ない」のだけれど、その恐怖がなければ、外出をしてはいけない、なおかつ、毎日訪れる人にじろじろ見られたり、愛嬌をふりまかなくてはならないという生活には耐えられないと感じる。そのため、動物園や水族館というのは研究機関の面は否定はしないが、最低でも新設すべきではないし、種によっては野生に返すべきではとも思う。
 人間は自然を切り開き、村を、街を、都市を作り上げた。人類文明を謳歌している。でも、動物たちはそういう手段があるだろうか? 地球の生命体のある面においての頂点である人類の下に居なければならなくなってしまった以上、そして人類と意思を疎通する手段がない以上、「私たちを放っておいて!」と言うことは出来ないし、土地開発などをしていく人間達に対して「平成狸合戦ぽんぽこ」に出てくるような強硬手段をとることは出来ない。甘んじなくてはならない。その為ドードー鳥やアホウドリのように、警戒心が少ない個体は絶滅か、かぎりなくそれに近い状態になってしまう……
 「にじ:シャチの親子 /愛知 - 毎日jp(毎日新聞)」というようなノンキなことを考えている方もいるようだが、そういう方には、もし自分が「閉じこめられ、通信手段等断たれ、ガラスの向うから見知らぬ人にじろじろみられるような毎日」を送らねばならないとしたらどう思うか? と、問いたい。