小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

形影相憐:無縁墓

 ノーミソだけブワンブワン動いているここ数日。Twiterクライアントを立ち上げ、フォローしている方のpostを読みつつrepしたりしていた。そして、いつしか子育ての話がでたように思う。repをやりとりしつつpostしていたのだが、ふとひらめいて下記のpostをした。

 父方の家の古い方の墓がある場所は、まあ、古い墓が沢山あるんだが(笑)、縁故者のいない明治時代以前の墓なんかもあったりする。縁故者はいないけれど、その墓で眠る人が居たことをすくなくとも自分は気付いた。それでいいと思ってる。

 自分には子供が居ない。だから自分の墓をつくったとて、参る人、世話をする人はいない。
 また、両親の墓についても不安に思っている。両親の墓は、兄弟の子供達が存命の間は、母(甥や姪にとっては祖母だが)のことを覚えてくれているだろうから墓参りをしてくれると思う。だが、彼らが亡くなった後は?
 兄弟達は皆郷里を離れてしまったので、甥姪たちが郷里にもどってくるとは限らない。それゆえ縁故者がいない墓となってしまう可能性が高いのではと心配になった。そのため 無縁墓のようになる前に、合葬墓に入れてあげてはどうかと兄弟達に打診をしたが猛反対されてしまったのである。自分が何故そういう事を思ったのか色々と説明したのだが、以前、相続の折に大もめした時のようになり、親族からも「あなたは末子だし、上の兄弟達にまかせなさい」と諭され、確かにに自分は家督相続者ではないわけだからと諦めた。まあ、家督とか古い単語を出したけれど、とりあえず穏便に済ませるには引っ込めるしかないので引っ込めた訳だ。
 墓のことを心配するのは、子供の頃に見た無縁墓のせいだと思う。父方の家の墓地で見た、「このお墓の縁故者を捜しています」という小さな看板をくくりつけられた、小さなお墓の幾つかを。10代の自分は今の倍以上好奇心旺盛だったし、ヘンなものに気を惹かれる性質を持っているから、そういうのを見つけるとどうしても足を止めてしまうのだ。
 柔らかい石でできているせいか、カドは欠けて、彫ってある字も読めるかどうか分からない。古い墓地なので、現在のようなマス目のようなきっちりとした区画があるわけでもなく(新たに追加造成された所はそこそこ綺麗そうだったが)、墓の大きさも4〜50cmちょっと位で。本当にもう、ひっそりと、という単語しか当てはまらない墓だった。また、両親が眠る墓地にも「無縁さん」の墓石が集められた場所がある。
 それら「無縁さん」のわびしさよ。
 だが。わびしさを感じると同時に、自分は、「ああ、あの無縁さんも、歴史のひとつなのかも」と思うようになった。郷土史にも載らない、名もない市井の人達。当時はそれなりの人だったかも知れないが、忘れ去られてしまった人達。けれど、墓という存在が、時を経ても「この人が居ました」という事実を無言で伝えている。
 両親の墓も、もしかしたら、ずっとずっと先、無縁さんのところに積まれてしまうかもしれない。そして忘れ去られてしまうかも知れない。けれど、両親がこの世界に存在したという証として、いつか……かつての自分のような、奇妙なウォッチャーが見てくれるかも知れない。
 ちなみに、自分は死後、ドナーや献体を希望している。その後合葬墓にいれてほしいと思っている。理由は幾つかあるが、決定的となったのは2つだ。
 昔。塔頭に住まう高僧が亡くなると、質素な木の棺に納め、葬儀の誦経も短く、埋葬への何やかにやも仰々しくせず簡素に行った、と。
 また、自分が郷里で何度か座禅会に参加しただが、その禅寺の和尚様の「僕はね、死ぬのは怖くないよ。だって、宇宙に還るんだ。どうして怖いことがあるだろうか?」というお言葉。そして、そのときの和尚の表情。
 その和尚様は、なんていうか、フレンドリーで、型にしばられず、トークも説法も上手く、本当、面白く惹かれる和尚様だ。そのお言葉を聞いた時も、唖然というか、坊さんって普通極楽云々とか言うんじゃないの? っていうツッコミをする余裕も無く、スケールのでかさ、フリーダムさに飲まれてしまった。圧倒されてしまった。ヘビににらまれたカエルという感じでは無い。ムリヤリな例えだが、目の前のヘビがいきなり踊り出して、カエルが「こういう時ってどう反応すりゃいいの?」とポカーンとした、というところか。
 実家の宗派たる浄土真宗大谷派のお坊さんとは全く違う、その和尚様の、型にはまらない柔軟な言動にスコーンと頭の後ろを叩かれた感もあって、禅宗について心を寄せるようになり、ぽつぽつと本を読んだり考え始めたという感じなのだけれど。
 まあさておき、そういう2つのお話がありそこから死後の自分について色々思うようになった。
 自分が死んだその後も、四季折々に自然は衣をかえつつ美しいままだろうし、世の中もチクタクチクタクと続いていくだろう。何の代わりもなく。ゆえに、今、この一瞬一瞬を大切にせよという教えからすれば、次のどこかへとシフトしていく自分が、前のステージに何か残す必要はそれほど重要ではないのではなかろうかとも思うのだ。また、魂というのがあると自分は信じているから、それがヒョイと肉体から離れてしまったら、必要と無くなった肉体は、上手に使える人が使って下さいよ、でいいんじゃないかと。ゆえに、親父がかつて医学を学んだ時にお世話になった方々のように、医学生が自分の肉体から何か学ぶことがあれば嬉しいと思うし、臓器提供をして(まあ、使える所は少ないだろうけれど)、病で苦しむ誰かが少しでもほっとするなら何よりではないかと。
 そうした後の残りについては、合葬墓なりに納めていただければ、とりあえず法的には安心だし(墓地、埋葬等に関する法律)。
 とはいうものの、無論、両親やご先祖様への気持ちを忘れることはしたくない。自分の宗教観・死生観と、ひとつの家に生まれた子達の一人として、両親やご先祖様を大切にするのは別問題だと思っている。郷里から離れ、こういうヤヤコシイ病気のこともあって、墓参はなかなか出来ないけれども。
 ともあれ、上記のpostを、ここ連日の大量postの海に沈めてしまうのはちょっと勿体なく思い、他につらつら思ったことも書き添えて、備忘録として置いておくことにした。