小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

考えさせられた事:社会は障害者の為だけにあるわけではないのでは?

 人力検索はてなで、「僕の同級生への対応」という質問があり、回答リクエストがありましたので、自分なりに考え、回答しました。
 どういう障害なのかは具体的に書かれていなかったので、何らかの知的障害か発達障害だと仮定して回答しました。その中で「周囲になるべくご迷惑をかけずに生きるには?」ということについて考えて欲しいとつくづく感じました。
 障害をもって生きるということについて、健康な人達がもっと手をさしのべるべきという声もありますが……それは義務でしょうか。無論、障害者へのサポート等様々な福祉活動をなさる方は、自らの意志でなさっていることであり、私もそういう皆さんにとても助けていただいてもらったので有り難い存在だと思っています。深く、深く。
 しかし、障害についての知識がなく、また、自分がやらねばならぬことが山積みで余裕がない方にまで障害者へのサポートをしろと押しつけるのはどうだろうと考えます。
 回答の中にも書きましたが、クラスメイトは福祉サポート員ではないと自分は思います。学校はまず、学習の場であり、クラスメイトにも今後の進学や就職に向けてやらねばならぬことも沢山あると思います。障害者にサポート員がつき、授業進行や校内イベントの折に進行がさまたげられるような事を防ぐ配慮があるのなら良いかと思いますが、そういうサポート員がおらず、障害者に対してどういうサポートをすればよいかという知識のない担任やクラスメイトにサポート役を押しつけるかのような考えには反対ですね。
 障害者差別反対! と声高に叫ぶ方もいらっしゃいます。しかしあえて自分は問います。生まれ持った「自らの器」や知識、技術等がないのにそれらを必要とされる事をやれと言われたらやることが出来るでしょうか? 戦闘に関する知識もなく訓練もないのに装備一式持たされて戦争にかりだされる兵士についてどう思いますかと。また、医学の知識がないのに医療行為を行うことはどうでしょうと。人は万能ではないのです。健康な人であっても、出来ないことがあるのです。無論、理由もなく、知識や技術がないことを批判されたり、それによるイジメをすることは反対ですし、非道徳的であるのは言うまでもありません。ですが、出来ないことがあるのに出来る人と同じように動け、または、動ける人が動ける人自身のやらねばならぬことも全て横に置いて、出来ない人を全面的にサポートしなくてはならぬ、というのはどこか違うのではと思うのです。
 差別される地域出身や関係者へ唾を吐きかけたりするような行為はいけないでしょう。しかし、差別されているからということを逆手にとって、人を脅すような行為をしたりするのは道徳的ではないというのと同じだと思います。ここを読んでお怒りになる方もいらっしゃると思います。でも今一度冷静になって、差別問題の中で「やってはならぬことは何か」ということと、人間は万能では無いという事について考えて欲しいと深く思います。
 確かに、障害者を抱える家族の悩みは、自分自身の母の苦悩を見て感じています。ウツの治療を始めた頃、母は私の願いに同意してくれて、担当医に一緒に会ってくれました。そして……
 「辛くて、どうしたらいいかわからなくて、娘を殺して自分も死のうと考えたことがありました」
 ……と横で話してくれたのです。あの時のことは忘れられません。その後も母は、自分のカウンセラーにも会ってくれたりして自分を支えてくれましたし、ウツ患者である自分とどう接して良いか自分なりに考えてくれたのではと思っています。
 そのように、障害を抱える家族はストレスを抱え込みやすく辛いというのは十分分かっています。だからこそ福祉サポートを利用することは決して恥ではないと障害者の家族の方々に強く申し上げたいと思うのです。親は子供が死ぬまで面倒を見ることは出来ません。いつか親は先立ちます。その後障害を抱えた子供は親の支えなしで生きていかねばなりません。その勉強は子供の頃、いや、障害を持って生まれた瞬間スタートするのではと思うのです。最初は家族が、そして障害者自身が物心ついたならば、障害者自身が、周囲の人になるべく迷惑をかけずに生きるにはどうすべきか。自分に合ったライフスタイルや勉強法、そして将来の仕事はどうすればよいかを学んで行くには早ければ早いほど良いのではと思うのです。
 それを指導して下さるのは、やはり障害について専門知識を持った方だと強く思いますし、そういう方が居る場所で学ぶべきだろうと思います。また、交流会という形で、健康な生徒と障害を持つ生徒が接する機会が今の障害者教育にはあるらしいとも聞きます。障害者福祉への政府や自治体の取り組みもあり、障害者の子供が健康な子供達と関わる機会は昔よりも増えているかと思います。月曜から金曜、朝から夕方までずっとというのは、障害に関する知識のない子供達には負担だと個人的に考えます。ですから、福祉サポートの学校で学ぶ事をどうか恥とか差別だと思わないで欲しいと思います。健康な子供達にも彼らがやりたいこと、やらねばならない事があります。その時間を割いても障害者の子供や、問題行動を起こす子供と一緒に過ごさねばならないのだろうかという事に自分は疑問を感じずには居られません。
 つくづく思うのですが、困っている時にどなたかが伸ばして下さる手は、有り難い、つまり「本当なら無かったかもしれないが、運良く、親切な方に巡り会えた」というご縁の証だと思っています。「有り難い」という言葉は「レアケースなのですよ」という意味なのです。故に貴重で素晴らしいことなのです。慈悲や親切は「下さい下さい」とねだるものではないと個人的に思います。それに巡り会えたならば、本当に有り難い、運が良かった助かった。嬉しい嬉しいと祈り感謝する、そんな感じなのだと思っています。
 個人的に、本当の障害者差別というのは、その方が出来る事があるのに「無理ですから、邪魔ですから、何もしないで黙って閉じこもっていて下さい」と否定したり、バッチィからあっちいけ! というような感じの一方的な悪口のようなものだと思います。差別ではないけれど配慮が欲しいという事例ならば、本来通行可能な歩道にムチャクチャに自転車が駐輪されている為に、歩くのが不自由な方や車いすユーザーが困難な状況になるというのが上げられます。そういう問題については、健康な人達は考えを改めるべきですし、自治体も啓発活動等のアクションをすべきでしょう。しかし、一般クラスに福祉サポート員なしで障害者の子供をフルタイム同席させることはどうかと思うのです。また、健常者と同じ作業内容を障害者の勤労者に求めることも。
 繰り返しますが、差別とは何を指すのか、そして、障害者を含め、全ての人が他の人になるべく迷惑を掛けずに互いに気持ちよく生活できる為にはどうすればよいか。それを今一度全ての人が考えて欲しいと思わずにいられません。