盧生之夢:貝と真珠
観音様の教えについて思う。
自分は発念したとき、養殖貝に差し込まれる核を抱いたのだと。観音様の教えを常々思い、その核の上にゆっくりと膜を重ね重ねて、真珠へと昇華させていくのだろうと。
観音様は教えの光を人々に放つけれども、それをどうこうしなさいとはおっしゃらないと思う。常に、受け取る人々にそれをどうするかゆだねているのではと。
信心の形は自由だと思う。それが光に満ちたものであれば。型にはまる事も(むしろ、自分らしい信心のありかたを作り上げることを観音様は望んでらっしゃると自分は思いたい)、急がなくていいし、ゆるやかで、ささやかであっても。
そして、人と人が接するとき交わされる「ナニカ」も、似たようなものだと思う。助けてもらったり、アイデアをもらったりしたとき、「核」が育つと思う。また、悲しい事や怒り、悪事も同様に。
良い事、悪い事を見聞きし、体験しても、それによって得られた自分の想いをどうするかは人々次第。助けて頂いた事を大切にし、困った人を自分が出来る方法で、ほんのかすかでも助けてあげる事が出来たらと思う。また、悪い事を見聞きして、それらから身を守る術について考え、近寄らないようにと思う事も。
これが道徳だと思うのだが、何故、学校や家庭でそういうことを子供に教えないのだろうかと思う。それを授業にすることが何故いけないのだろうかと。不思議でならない。確かに、教えた所で生徒が持つ「核」に生徒が膜を重ねていこうとしない限り、何を言った所でどうしょうもないのだが……