小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

形影相憐:死は常に人と共にある

 ウツという病気を抱えて生きる自分は、幾度か希死念慮に悩まされたことがある。生と死の間、渚で足首を波に洗われながら歩いているような感じを幾度となく経験した。また、両親とも既に病没し、実家も失い帰る所もない。一人暮らしになり、福祉と親類の方々の援助で生きながらえているのが現状だが、もうじき43。親父が亡くなったのが55歳前。他に持病もあるため、親父の亡くなった歳まで自分は生きていけるのか不安に思うことも多い。
 さて、今回の大震災で多くの方が亡くなられた。そして、多くの方が「それまでの生活」を失ってしまった。だが、それは大災害だからこそ、一時に多くの方々が被害に遭われたからこそ、被害を受けた方、その周囲の方、そして見守る人達に大きな衝撃を与えてしまったのではないだろうか。
 実際の所、日々事故や病気、諸事情で「大切な人/モノ」等を失っている人は少なくないと思う。いや……それが、人生なのだと思う。
 故に宗教は人の心に滑り込む。クッションにもなりうるし、中には「悲しみ」を和らげるフリをして金を巻き上げ、金づるにならなくなればボロ雑巾のようにうち捨てる連中も居る。様々だ。
 人は罪と悲しみから逃れたい。それは人のこころの動きとしては自然だと思う。そして宗教はその二つについて様々なことを述べ続けて来た。それと共に白い手も伸ばされているが……悲しいかな、黒い手を伸ばす者も居る。人は罪深いものだ、天罰は降りる、許しには代償(金)が必要、代償があれば許され、安楽になれると。
 悲しみで混乱しているこころは、正常な判断をすることが難しいと個人的な体験から深く思う。だから、そういう「黒い手」が「白い手袋」をはめて、悲しんでいる人に近づいてきた時、上手にあしらうことができない人もいるだろう。自分はそれを危惧する。どうかそういう邪な連中にダマされる人が居ませんようにと心から祈っている。
 そう。喪失、別離、悲しみは人生においてレアケースではないと申し上げたい。人がそれらを体験せずに生きることはほぼないと思う。ただ……それが、急で、怒濤のようで、そして自分の周囲の多くの人も同体験しているがゆえに、ショックの波が乱反射して大きくなっているのだろうと個人的に思う。
 災害に遭われた方々、残された方々、どうか、悲しむこと、泣くこと、拳を大地に叩き付けることを、ネガティブに考えないで欲しいと思う。天罰とか思わないで欲しいとこころから思う。日本の国が悪いから、その土地に何かがあるから、こういう災害が起きたとか思わないで欲しいと思う。そして誰かを恨まないで欲しいとも思う。失ったものは二度と戻らない。時の針は戻せない。悲しみを無理に乗り越えようとせず、ただただ、1日1日を生き延びて欲しいと思う。亡くなった方の冥福を祈りつつ。
 死や喪失、それは常に人と共にある。だけれども、人は生きることができる。「生」もまた常に人と共にあるのだ。
 歴史を紐解けば、様々な事が人々の生活を破壊していったが、その度、生き残った人々は「生」の道を進み、ひとつひとつ、土台になる石を、柱となる木を組み上げ、幾年もかかって復興していったのだ。今度もまた、生き残った人々がその道を歩むであろうと私は信じたい。
 なんといっても、遠い昔の世界のように、山一つ超えたら他の国で、自分達の集落の再建は全て自国民───荘園とか郷とか村の単位の人々でやらねばならぬという時代ではない。海の向こうまでこの大震災について深い気持ちを持って下さる方がいらっしゃる。そんな時代だ。それ故にまあ、問題も色々あるだろうけれども、復興のための「温かい手」が各地からのびている。
 無論、現代社会でコトを起こすには金が必要だし、金がある所には黒い影があるが…… それについてはまた別の時に書くべきだろう。
 ともあれ、今は涙の日々でも構わない。きっと、涙をぬぐって、礎となる石を掴むことが出来る日は来るだろうから。そして、その手を支えて下さる支援の手、温かい手はあるだろうから。
 複雑な世の中でも、千年前と同じ人のこころ、人の有り様はあると自分は信じている。
 死と喪失と隣り合わせだからこそ、人は生きて欲しい。ただただ、今はそのことを心から申し上げたいと思う。