小料理屋さつき

かつて「はてなダイアリー」にあった「小料理屋さつき」をインポートしたもの+細々と。

世事多事:筑紫氏がお亡くなりになって思ったこと

 そもそもこの「世事多事」というのは、筑紫哲也氏のニュース番組のコーナー名「多事争論」からきています。ニュー速の住人の人にはどちらかといえば嫌われていた筑紫氏ですが、私はあまり氏が嫌いっていう感じは持っていませんでした。
 筑紫氏は、ご自身の主張をはっきりとおっしゃるタイプの方だったなという印象があります。字幕だらけと空虚な笑いのバラエティ、野次馬ド根性が加速するワイドショー、その様な状況の中、ニュース系番組も視聴率獲得のために流されがちかなと個人的に感じることがあるのですが、筑紫氏のそういうスタンスは好印象でした。例えその主張が私の持論と相反するものであっても。大切なのは、視聴者におもねることなく「伝えたい事を明解に伝え、論じたい事を的確に語る」ことだと思うのです。NHK的な「無難に淡々と伝える」のも大切ですし、嫌いではありません。けれど、民放の23時辺りのニュース系番組はキャスターの個性が番組の胆だと思うのです。そう言う意味では、筑紫氏は大変好印象でした。
 私は以前よりTV試聴から離れており、部屋のTVもコンセントが抜かれたまま放ったらかし状態が長く続いていたため、筑紫氏が出演していた最後の方はあまり見ていませんでした。氏が肺ガンにかかり、しかし克服しますと発言して一時療養に入った、というのは聞いていたのですが。
 
 筑紫氏の発言のひとつ「ネットは便所の落書き」はかなりネット住人の間であーだこーだと騒ぎになりましたね。とはいえ、怪文書保管系のサイトなどにある「トイレの落書き」とかを見ると、まあ、いわゆる「電波・お花畑系」もありますが、世相を反映した何かなんかもあったと思うのです。おおっぴらに言えない、言いたいけど言えない、でも書いちゃうぞ! そんな生々しいヒトリゴトもあったかと。
 以前大阪に住んでいた頃、大阪花博関連で、地下鉄梅田駅の改装工事に伴い、雑誌や新聞のスタンド売り場を撤去だったかの話があがって、それに反対する人達が、駅の柱にそれらの存続を訴える文章を書いた模造紙を貼り付け、賛同した人たちが通りすがりにその意を書き添えたというのを覚えています。最初は当初の目的の事だけ書かれていたようですが、模造紙の余白が一杯になって新しいのに変えられるにつれ、通りがかる様々な人の様々な思いが書き重ねられていったのを見た記憶があります。まあ、20年近く前の話ですから、何故あの模造紙が直ぐに撤去されなかったか、当初の問題が何だったかは記憶が薄れてしまい、はっきりとしたことは覚えていないのですが、当時は今のように匿名で多くの人に向けて「言いたいけどはっきり言えない、でも言いいたい」コトを言える場がどこにでもあった訳ではなかったと思うので、あの模造紙は私に強い印象を与えたのです。人はみんな、言いたいことが沢山あるんだな、と。不満、悲しみ、喜び、ちょっとお下劣なジョーク等々……

 前振りが長くなりましたが、まあ、あのときの筑紫氏は多分、ネガティブな意味で「便所の落書き」と語ったと思いはしますが、それと同時に、ネットで発言することについて慎重にならなくてはならないという警鐘を鳴らしたとも思うのです。また、上記のように、ネットが浸透するまで「梅田駅の模造紙」のようなものが登場しない限り、不特定多数に向けて発信することが出来なかった匿名発言が、ノーチェックで公に、しかも簡単にできるようになった事への不安感などもあったのだと思うのです。
 メディアだけが公に向けて発信できる! 素人は黙ってろ! という「メディアの驕り」だ、と思う方もいらっしゃるでしょう。しかしもう、ネット無しの時代には戻れないと思います。そうなれば、blogなどでの発言や自分の私事についての書き込みについて慎重なる他ないかと私は深く思うのです。
 特に、最近のmixi等での自爆を見るに付け、ネットリテラシーを子供の頃からきちんと指導することの重要性を感じずにはいられません。

 おもねず、自分の持論を明確に伝えることの重要性。されど、多くの意見に耳を傾け、それはそれで尊重することの大切さ。
 筑紫氏の死去でそれらのことを改めて思いました。合掌。